日本語は「非論理的」なのか?

前置き

私はあくまで日本語を愛する1人のネイティブスピーカーである。論理学を修めてなどいないし、言語学は私の貧弱な知性では理解できなかった。ついでに言うとハト派ではあるが、保守寄りだ。そのため多分に主観的な意見や、自己勝手な解釈をする(と思う)ので、ご了承いただきたい。

私の意見

いきなり結論を述べると、日本語は論理的な言語である。正確に言うと、日本語の論理に沿った論理的な言語なのだ。世界中にさまざまな言語が存在するが、各言語ごとに論理構造は異なる。簡単な例を挙げると、ゲルマン語系に多いSVOの文構造と違い、日本語のそれはSOV1だ。これだけでもまったく違うことがわかるのではなかろうか。ただし、世の中には結論から入ると文句を付ける人がいるので、以下、論拠としてつらつらと言葉遊びを続けることにする。

日本語にけちをつける人たち

日本語は非論理的な言語だ、と思っている人は昔から多いようだ。ひと昔前など、外国語――ほとんど英語だったが――関係の書籍には、やれ英語はすばらしいだの、やれ日本語はゴミ(超意訳)だの、そんな意見であふれかえっていた(まったくくだらない話である)。いまだにこうした意見を持ち続けている人は多いのではなかろうか。

そもそも「論理的」とは何なのか

前述のような、日本にけちをつける輩は、何を根拠に論理的/非論理的かどうかを判断しているのだろうか。

いったん、岩波の辞書2を参照してみよう。

ろんりてき【論理的】〘ダナ〙(正しい)論理にかなっていること。「――におかしい」。理詰めに考える態度であるさま。また、論理に関していること。またコンピュータで「物理的」に対し、特定のハードウェアとは切り離して考えられる在り方のこと。

ちなみに、この辞書では、論理とは「正しい筋立て」とか、「物事の法則的なつながり」と説明されている。なんだかうさんくさい説明である。

ここで忘れてはいけないこととして、いかな場合であれ、正しさとか、法則なんてそれこそ主観に過ぎないということだ。こうした抽象的なタームの意味合いは、基本的に使う人間の主観で決まる。そこには一方向の正しさ、法則しか存在し得ないのだ。

そもそも言語に論理性を求めるのであれば、それぞれの論理構造を知らなければならない。そして、それを知るということは、言語の論理を知ること、まさしくこれにほかならない。

要するに

日本語を非論理的な言語扱いする輩は一度考えをあらためるべきだ。 日本語を学びなおすべきである。


  1. ちなみに、勘違いする人がいるが、SOVという文構造は何ら珍しいものではない。たとえばインドやイラン、ヨーロッパにだってある。自分の無知を恥じるべきだろう。

  2. 西尾 実、岩渕 悦太郎 、水谷静夫 編、『岩波国語辞典 第七版 新版』、岩波書店、2011年