実用文と小説文(一人称)について考えたこと

 この前、知人に請われて一発ネタで二次創作をやった。まあやってみると原作のキャラブレもあって結構難しくて、かなりひどい出来だった。公開したことを後悔するくらいには、まあ惨憺たる出来だったと言っておこう(駄洒落じゃないよ)

 とまあそれはさておき、その時ひとつ気づいたことがある。実用文と小説文(一人称)の違いとは何か、ということだ。

 以前このブログでも書いたとおり、普段は仕事柄実用文、それも記者的な文章を書くいている。ニュース記事やレポート、書籍の紹介記事など、種類はさまざまなのだけれど、その際求められることは共通している。それは何か。

 曖昧性を排除した具体的な景色を読者と共有することだ。言い換えると、行間のない文章を提供することだ。「客観的」と言ったほうがわかりやすいだろうか。

 たとえば、目の前、今向かっている机の状況を記事にしたとする。その場合、どのように説明するか。日常会話の中で説明する時は、「本がたくさん積み上げられていて、物が散乱している」という風になるだろう。散らばっている物についての説明が求められない限り、それで十分なはずだ。

 けれど、記者はそうではない。初めから具体的な描写が求められる。本は何冊あるか、何種類の物があるか、ほかに紹介すべきことはないか……挙げていけばキリがない。場合によっては、机の作りや大きさ、椅子の有無、部屋の中での位置なども求められる。だから先ほどの文章を言い換えると、「机の上には、漫画や小説、実用書など、本が軽く100冊以上は積み上げられている。文庫本、A4サイズ、B5サイズなどが……」という感じになるかもしれない(あくまで適当な例だから言うほど具体的じゃねーよというツッコミは聞きません)。要するに神の視点ですね。

 これを踏まえた上で、小説文、特に一人称文体に向き合うことにする。一人称小説の文体の特徴は何だろうか。

 まず考えなければならないのは、一人称の時点で神の視点はあり得ない、すなわち語りの主観性が強くなるということだ。事物を具体的に描写する必要はない。事物の印象を伝えること――それが肝になる。

 これは、自分の動作を何もかも描写することはないということにもつながる。読者のイメージに任せますよ、ということだ。たとえば、起きてから身支度をして家を出るまでの風景を想像してみてほしい。朝起きたら最初に何をするだろうか。目覚ましを止める? 顔を洗う? 着替える? いやいや、真っ先にやるのは「瞼を開ける」ことですよね。ただこれをいちいち描写しているとかなりうっとうしい。なんで朝の描写にそこまで時間をかけるんだよこいつ、と思われてしまう(ここまで来るとさすがに三人称でもうっとうしいはずだ)。小説――特に一人称――では、こういう動作や風景を大胆にカットできる。そこが違いでもあり長所でもある。

 ここでもさっき記者的文章でうんぬん言った机の描写について、一人称小説的に描写してみると、「――あの本をこの山から取り出さなければいけないのか。そう考えただけで、気分が重くなった」という感じになるかもしれない(これもツッコミは聞かないよ)

 したがって、「実用文を書く時と一人称小説文を書く時では、頭の使い方を切り替える必要がある」と言えそうだ。三人称小説を書く上では実用文の頭でもある程度は問題ないかもしれないが、一人称小説ではそうもいかない。印象、気持ち、主観を伝える思考にシフトしなければいけないのだ。

 今回の話は、これがわかっていなかったために、非常に固い文章を作っちゃって後悔した、という個人的な気づきでした。

 

 ちなみにここから、ミステリ作家(エンタメ?)とほかの作家の違いや、少女漫画はなぜあれほどキラキラしたトーンを多用するのかといったことまで考えたけれど、それは別の機会に書きます。

 

(追記)物語論うんぬんは考えていないので、そのツッコミもやめてください。