無垢であり続けるとはどういうことか――『クララとお日さま』を読んで

2行でわかる記事内容

『クララとお日さま』を読みました。
いろいろと考えました。

ほんだい

www.hayakawa-online.co.jp

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最近読んだ(正確に言うと8月中に読んだ)『クララとお日さま』の感想を記しておく。あまり核心に触れないように記載するつもりだが、どうしてもネタバレせざるを得ない部分もある。未読なら注意してほしい。

おはなしのなかみとくわしいかんそう

主要な登場人物は、ロボット(本書ではAFと呼んでいる)である語り手のクララと、病気を患っている人間のジョジーの2人だ。もちろんほかにもジョジーの母親、使用人のメラニア、ジョジーと将来の計画を立てているというリックなどが出てくるものの、クララとジョジーの関係が中心(主題ではない)である。

まず読み進めていくとわかることとして、よくわからない用語が多い。前述のAFもそうであるし、オブロン端末、クーティングズ・マシン、向上処置など、翻訳であることを加味してもまったく知らない単語が出てくる。とくに説明されることはないが、これらのせいで困ることもない。たとえばクララの語りであったり、子どもの親たちが会話している部分であったりと、そのような描写からある程度察することはできる。

当初は「ロボット少女が人間との交流の中で徐々に感情を芽生えさせていくストーリーだろうか。そんなに安直な話なのだろうか?」と疑問があった。もちろんそういう側面がないとは言えないが、実際にはまったくの別物だと考えたほうがよい。

クララには物語開始時点ですでに感情があるのだ。初めから自分で判断して行動しているし、ほかのAFとの違いも認識している。中盤〜終盤で大きな選択をする場面があるが、その際ももちろん感情に従って実行している。ほとんど人間と言ってもよいだろう。

その一方で、クララには人間と大きく違う点がある。まず、無垢であるということだ。クララは物語の初めから終わりまでずっと無垢なままなのだ。これが人間であれば、さまざまな経験を吸収して大人になっていく中で、そうした無垢さが摩耗し、薄れていくのが普通だろう。それがクララにはまったくない。こうした、まったく変わらず、ずっと純真無垢であり続けることこそが人間とまったく異なる第一の点だ。

人間と異なる第二の点は、物理的な視界にある。クララのカメラアイに近い(あくまで近いだけ)視点で物事が語られるが、これが非常に奇妙だ。「ボックスで区切られている」「ボックスに人が分割されて見える」など、正直なところ何を言っているのかわからない。人や生き物といった具体的な事物について語っているとき以外、まったく情景がイメージできないのだ。そしてそれゆえに、クララがけっして人間でないことを強く実感させ、さらに物語そのものに対する非現実的な印象も強まる。

そう、本書は全編を通して非現実的なのだ。と言うと「フィクションだから当たり前だ、馬鹿かお前は」と思われそうであるためより正確に言おう。非常におとぎ話的なのだ。クララは最初から最後までお日さまのことを信じ続けているし、実際にお日さまに頼って問題が解決する場面もある。そもそも、「ロボットゆえに」と先ほどは述べたものの、クララの純真さが一番おとぎ話的と言えるかもしれない。

ただし、おとぎ話的だからといって「すべてがうまくいってみんな幸せに暮らしました」という凡庸な結びにはならない。物語中で解決するのは、言ってしまえば極めて個人的な問題にすぎないからだ。けっして、社会的、世界的な何かに決着がつくことはない。それは、お日さまのおかげで問題が解決した終盤(おとぎ話が終わった後)で顕著にわかる。

社会も身分も趣味も関係なかった子ども時代が終わり、ジョジーはようやく現実の時間を歩み始める。その中で、リックとは徐々に疎遠になっていく。そしてそれを当然のことだと当人らは受け入れているのだ。クララは少し気に入っていないものの、2人の決めたことだから、と自分を納得させる。そのうえ、クララとジョジーすらも徐々に活動範囲が合わなくなっていく。ジョジーは大学に行き、家の外にジョジーの世界を作り始める――大人になる――のに対し、クララの世界はいつまでも家の中なのだ。子どものままなのだ。そして最後にクララは……。この部分はぜひ読んで確かめてみてほしい。最後のやりとりも含めてだ。

さて、ここまで長々と書いてしまったが、要するに本書は、無垢であるとはどういうことか、仮にいつまでも無垢なまま生き続ける存在がいたらどうなるのか、と問いかける1冊だった。いや、まったくおもしろい本だったと言っておこう。人によっては本書の結末に悲しみを覚えるかもしれないが、少なくとも私は結末を含め非常に楽しんで読み進めた。もちろん、引っかかる部分がまったくなかったと言えばうそになるが、無垢さと幸福について興味深い回答を示した小説であった。

最後に余談だが、読んでいる途中でオスカー・ワイルドの『幸福な王子』を思い出した。ただし、あちらがキリスト教的世界観だったことに対し、本書はどこか仏教にも通じる無常観が漂っている。さらに言えば、王子の無垢さとクララの無垢さも異なっている。テキストを比較しながら読むとまたおもしろいかもしれない。

おわり

今回はこのあたりで終わりだ。9月はもう少し精力的にブログを更新していきたいところだが、どうなるかは何もかも未定である。

縁があったらまたお会いしましょう。