ちょっと前からザミャーチンの『われら』を読んでいる。岩波版。
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うん、まだ読み続けているんだ。読み始めてから3ヵ月経っている気がするけど、まだ半分くらいしか読み終わっていない。SFを期待して読んだら想像以上に思想的というか、端的に言ってあまり楽しくなかったからです。つまらないわけではないんだけどね。どうもページを繰る手が進まないんだ。
まあいつか読み終わるだろうからそれはいいとして、『われら』を読んでいてふと思った。
「管理社会を描いたフィクションってこの世の終わりみたいな話ばかりじゃない?」
『われら』は当時のソ連を批判した小説だから仕方ない部分はあるけど、それにしてもオーウェルの『1984』とか、ハクスリーの『すばらしい新世界』とか、遡ればウェルズの『タイム・マシン』とか、あるいはモアの『ユートピア』とか、そんなのばかりだよね。
それで、ちょっと調べると(合っているのかわからないが)こうした文学作品は、ユートピア小説の反動で生まれ、人間の理性の限界への風刺、嘆きが根っこにあるらしい。なるほどね。
だからこそ思うけど、たまには「管理社会で幸せになった」みたいな作品があってもいいんじゃない? もちろん相応に批判はされるだろうから、それを覚悟のうえでね。
だってこの手のディストピアものってどいつもこいつも不幸せな状態に気づいてうんぬんかんぬんって感じでワンパターンだし、そこに啓蒙しぐさを感じてしまうんだよな。へそ曲がりと言われたら否定はしない。飽きているだけかもしれないけど。
それでも、「管理社会=悪」という単純な図式がいまだに主題になるのはどうなんだろう。失敗している事例が多いからかもしれないけど、そもそもそう描かれる「管理社会」が安直ではないか? それに、あくまでそうした管理社会というものは「作品が描かれた時点において考え得る管理社会の様子」でしかないよね。だからこそ、せっかくのフィクションなんだし、アグレッシブに振り切った話にしてもいいんじゃあないかね1。
なんて、こういうふうに思考を巡らせつつ過去の作品を見つめ直していくとドツボにはまるから普段からやるのはお勧めしない。でも思考実験としてはおもしろいと思うんだよね(おもしろいと言いなさい)。
ここまで考えて思ったが、もしかして『家畜人ヤプー』かこれは。